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通商産業省の沿革

意外と複雑なんですね。
こんな仕組みになっているとは意外な事でした。

通商産業省の沿革は、1949年(昭和24年)5月25日、商工省とその外局である貿易庁、石炭庁を統合して発足した。この組織を考えたのは白洲次郎といわれる。発足当初の通産省には、吉田茂 - 白洲 - 牛場信彦らの「外交派」・「通商派」ラインとして、時に「永山天皇」と呼ばれた永山時雄初代官房長らがおり、主流である「産業派」・「統制派」には岸信介 - 椎名悦三郎 - 美濃部洋次 - 山本高行ラインとして、玉置敬三や平井富三郎、佐橋滋、今井善衛などが名を連ね、その他「商務派」には豊田雅孝らがいた[2]。その後も、「資源派」と「国際派」との対立軸など、現在に至るまで省内における政策対立には事欠かないことでも知られている。

発足当時は資源庁、工業技術庁、特許庁、中小企業庁の4つの外局があったが、1952年に組織改革が行われ、外局は特許庁と中小企業庁の2つになった。1972年に田中角栄が通商産業大臣から内閣総理大臣に就任した時、通商産業省出身者が総理大臣秘書官を担当するようになった。これが前例となり、後の内閣も通商産業省から出向で総理大臣秘書官を担当するようになり、首相への通商産業省の影響度が大きくなった。1973年に新たな外局・資源エネルギー庁を設置。2001年1月の中央省庁再編に伴い、経済産業省に名称変更された。ただ「経済」の名称は、マクロ経済政策(経済計画)の所掌を含む意味を持つため、現状ではそぐわないとの指摘もなされる。

2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編において、通商産業省の廃止に伴いその後継存続機関として新設されたもの。産業政策、通商政策、産業技術、貿易などを所管する。

前身の通商産業省は、かつては日本経済ないし「日本株式会社」の総司令塔として高度経済成長の牽引役とされ、海外でも「ノートリアス ミティ notorious MITI」ないし「マイティ ミティ mighty MITI」と呼ばれ、その名は日本官僚の優秀さの代名詞として広く轟いていた。[1] その持てる許認可や行政指導をあまねく駆使し、さらに政府系金融の割り当て融資、予算手当て、補助金などを力の源泉として主に産業政策を掌り、のみならず通商や貿易、技術革新に応じた科学技術開発に特許、エネルギー政策、中小企業政策など幅広い権限を保持してきた。他省庁の領域にまで踏み込む政策で「ケンカ官庁」の異名をとっていた。また通産省中堅官僚が世界各国のジェトロを経由した産業調査員(いわゆる「産調」)として調査活動に従事している。

経済産業省は自由な気風も後押しし、実業方面や政治家、起業家などに優秀な人材を数多く輩出してきた。この理由から、経済産業省では、優秀な人ほど転出するということもよく言われているが、一方で他省庁同様、主流派に乗り切れなかった一群にすぎないと指摘されることもある。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年02月26日 18:41に投稿されたエントリーのページです。

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